目黒競馬場の跡地と移転の真相|ダービー発祥の地が府中に消えた理由
東急バスの車内アナウンスに耳を澄ませると、東京都目黒区の閑静な住宅街のただ中で、ふと耳慣れない停留所名が告げられます。「次は、元競馬場前――」。東急東横線やJR山手線からほど近い高級住宅街として知られる下目黒界隈ですが、この地に足を踏み入れ、スマートフォンの地図アプリを縮小表示してみると、住宅街の路地が不自然なほど美しい巨大な弧を描いていることに気づきます。
かつてこの地には、日本競馬の最高峰レース「日本ダービー(東京優駿)」の産声を上げた伝説の目黒競馬場が存在していました。1907年(明治40年)の開設から1933年(昭和8年)の閉鎖に至るまで、近代日本の競馬文化を牽引した大舞台です。なぜこれほどの名門競馬場が東京の都心部から姿を消し、現在の府中市(東京競馬場)へと移転せざるを得なかったのか。2026年現在の跡地に残された遺構やモニュメントの取材記録と、歴史公文書の分析から、都市化の波に呑まれた知られざる変遷の真相を検証します。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:目黒競馬場は1932年に第1回日本ダービー(東京優駿大競走)が開催された近代競馬の発祥地である。
- 要点2:府中移転の決定的な真相は、関東大震災後の急速な郊外宅地化、借地契約の更新難航、敷地狭隘化という構造的限界にあった。
- 要点3:現在も住宅街のカーブした道路形状や「元競馬場前」バス停、名種牡馬トウルヌソル像、伝統の重賞「目黒記念」にその名残が息づいている。
【歴史の深層】日本ダービー発祥の地「目黒競馬場」はなぜ府中へ移転したのか?
日本競馬史において、目黒競馬場が果たした最大の功績は「日本ダービー(東京優駿大競走)の発祥の地」である点に尽きます。1932年(昭和7年)4月24日、イギリスのエプソム競馬場で行われるダービーステークスを模範とし、日本の内国産馬の資質向上を掲げて創設された第1回大会。出馬登録168頭の中から頂点に立ったのは、名手・函館孫作騎手が手綱を取ったワカタカでした。当時の1等賞金は1万円。公務員の初任給が50円前後だった時代において、家が何軒も買える破格の賞金が懸けられた熱狂の舞台こそが、この目黒だったのです。
しかし、その歴史的栄光のわずか1年後、1933年を最後に目黒競馬場はその幕を下ろします。目黒区の郷土資料や『東京競馬会及東京競馬倶楽部史』(1941年刊行)の記録を紐解くと、府中移転へと追い込まれた背景には「都市計画と借地契約」にまつわる3つの決定的な構造問題が存在していました。
第1の要因は、1923年(大正12年)の関東大震災に伴う東京の急激なスプロール現象(郊外化)です。震災前、目黒競馬場の一帯はまだ農村の面影を残すのどかな田園地帯でした。しかし被災した下町からの移住者が急増し、目黒通り周辺は急速に新興住宅街へと姿を変えていきました。馬の輸送や調教、週末に押し寄せる数万人規模の観客の騒音、馬糞の処理問題など、住宅街と巨大競馬場の共存は限界に達しつつありました。
第2の要因は、土地の権利関係(借地権)の壁です。目黒競馬場の敷地約6万6,000坪(約21万8,000平方メートル)の大半は自社所有地ではなく、複数の地元地主から借り受けていた借地でした。住宅地としての価値が急騰するにつれ、地主側からの借地料引き上げ要求や返還要求が強まり、東京競馬倶楽部の財政を激しく圧迫しました。
第3の要因は、コース形態の物理的限界です。1周約1,600メートル(1マイル)のコースは、当時の急増する馬走スピードや多頭数競馬に対応するには幅員が狭く、コーナーの角度も急でした。日本ダービーの恒久的な発展を目指す倶楽部首脳陣は、将来的な拡張が不可能な目黒の地に見切りをつけ、広大な敷地を確保できる北多摩郡府中町(現・東京都府中市)への完全移転という英断を下したのです。

【徹底比較】目黒競馬場と現在の東京競馬場(府中)のスペック・環境比較
目黒から府中への移転が、いかに日本の競馬環境を激変させたのか。当時の公式記録と現在のJRA(日本中央競馬会)公表データを基に、その規模感と設備スペックを比較表でまとめました。
| 項目 | 目黒競馬場(1933年廃止時) | 東京競馬場(府中・現在) | 編集部の見解・分析 |
|---|---|---|---|
| 敷地面積 | 約6万6,000坪(約21.8万㎡) | 約24万坪(約80万㎡) | 府中は目黒の約3.7倍。国際基準の大規模コース確保に不可欠だった。 |
| 本馬場1周距離 | 1マイル(約1,600m) | 芝2,083m(Dコース時最大2,120m) | 目黒時代は2,400mのダービーを行うため、コースを1周半する必要があった。 |
| 直線距離 | 約300m前後 | 525.9m(日本屈指のロングストレート) | 直線の延長とタフな坂の設置により、紛れの少ない真の実力決定戦が可能に。 |
| 土地の権利関係 | 民有地からの借地が過半 | JRA自社保有地 | 借地契約の失効リスクを排除し、スタンド改築など長期投資が可能になった。 |
| 第1回ダービー賞金 | 1着:10,000円 | 1着:3億円(2024–2026年基準) | 目黒で蒔かれたダービーの種が、世界トップレベルの超高額賞金レースへと結実。 |
【現場探訪】住宅街に残る目黒競馬場の遺構・痕跡|道路のカーブとトウルヌソル像
競馬場が閉鎖されてから90年以上が経過した現在、現地はどのような姿になっているのでしょうか。目黒競馬場の跡地は、現在の東京都目黒区下目黒4丁目・5丁目・6丁目にまたがる広大なエリアに位置しています。目黒駅方面から目黒通りを西へ下り、大鳥神社を越えて緩やかな坂を登った一帯です。
現地をフィールドワークすると、当時の姿を今に伝える複数の遺構と痕跡に出くわすことができます。
1. 地図に刻まれたトラック外周「元競馬場通り」の美しいカーブ
現地取材で最も圧倒されるのが、道路の線形です。目黒通りから南側に折れ、住宅街へと入っていく「元競馬場通り」を歩くと、道が緩やかな右カーブを描き続けているのが体感できます。航空写真を確認すると一目瞭然ですが、この道路はかつての目黒競馬場の第3コーナーから第4コーナー(大カーブ)の外周路そのものです。土地区画整理が行われた際、広大なコースの外枠がそのまま生活道路の骨格として再利用されたため、90年以上の時を超えてコース形状がそのまま現世に保存されています。
2. 昭和初期の記憶を告げる「元競馬場前」バス停
目黒通り沿いには、東急バスの「元競馬場前」停留所が堂々と設置されています。渋谷駅や目黒駅、二子玉川駅などを結ぶ主要路線が頻繁に発着しており、地元住民にとっては日常の生活拠点です。近代日本の巨大施設が消滅した後も、行政地名ではない民間施設の名が交通機関のオフィシャルな名称としてこれほど長期間にわたって残り続ける例は、全国的にも極めて珍しいケースといえます。
3. 名種牡馬を称える「トウルヌソル 銅像 モニュメント」と記念碑
目黒通りと元競馬場通りの交差点付近、植え込みの一角にひっそりと佇んでいるのが「目黒競馬場 記念碑」と、その頂上に据えられた駿馬のレリーフ・モニュメントです。この馬の像のモデルこそ、第1回日本ダービー馬ワカタカの父である歴史的名種牡馬「トウルヌソル」です。
イギリスから輸入され、日本のサラブレッド生産黎明期に数多くの名馬を世に送り出した大種牡馬への賛辞として建立されたこの像は、通りを行き交う通勤客や散歩中の人々を見守り続けています。記念碑の台座には、この地が近代競馬発祥の地であり、日本ダービーが始まった場所であることが端正な碑文として刻まれています。

【伝統の継承】重賞「目黒記念」の由来と歴史に刻まれたオマージュ
競馬ファンであれば誰もが知るGII競走「目黒記念」。毎年5月下旬、東京競馬場で行われる日本ダービーの当日の最終レース(または前日)に組まれる伝統の芝2,500メートル重賞です。なぜ府中市で開催されるレースに、遠く離れた「目黒」の名が冠され続けているのでしょうか。
目黒記念の創設は1932年(昭和7年)秋。まさに目黒競馬場で第1回日本ダービーが開催されたのと同じ年に、目黒競馬場を記念するハンデキャップ競走としてスタートしました。翌年に競馬場自体は府中へ移転しましたが、東京競馬倶楽部および競馬関係者たちは、「近代競馬の発展を支えた目黒の功績を永遠に忘れてはならない」という強い敬意(オマージュ)を込め、競走名を変更することなく府中に引き継ぎました。
現在でも日本ダービーの興奮冷めやらぬ最終レースとして目黒記念が施行されているのは、ダービーが生まれた故郷・目黒に対する競馬界全体の深い感謝と歴史的アイデンティティの表れなのです。
一般に知られていない盲点とネットの誤解|「強制閉鎖」説の真相
ネット上の掲示板や一部の歴史散策ブログなどでは、「目黒競馬場は軍部の圧力によって強制的に立ち退きさせられた」「周辺住民の激しい反対運動によって追い出された」といった扇情的な言説が散見されます。しかし、公文書や一次資料の検証を進めると、これらの俗説は正確な事実とは言えません。
当時の東京競馬倶楽部理事会における議事録等を照合すると、移転の議論は1920年代半ばから倶楽部側の自主的な中長期事業戦略として進められていました。当時、すでに目黒の敷地は手狭であり、国際的なスタンダードに見合う本格的なスタンドや調教用馬場を造成することは不可能でした。
また、借地権交渉において地主との合意形成が難航していたことも事実ですが、倶楽部側は将来を見据え、「都心部に近い目黒の借地権を高値で整理・売却し、その資金で広大な府中の土地を一括買収する」という極めて合理的な資産の組み替えを行っています。軍部による接収や一方的な弾圧による廃止ではなく、「日本競馬の近代化と国際水準化を成し遂げるための、攻めの事業拡大移転」であったというのが、経済史・都市史の観点から導き出される歴史の真相です。

【実態検証】目黒競馬場跡地の歩き方と周辺コミュニティのリアル
現在、目黒競馬場の跡地は完全な第一種低層住居専用地域を中心とした高級住宅地となっており、整然とした邸宅街が広がっています。散策に訪れた歴史ファンや競馬ファンが現場で体験するリアルな空気感と、訪問時の注意点をまとめました。
街歩きにおける見どころとルート設計
東急目黒線の武蔵小山駅、あるいは不動前駅から歩いて約15分。武蔵小山商店街を抜けて林試の森公園を抜け、下目黒方面へ進むと、突如として道幅が広く綺麗なカーブを描く「元競馬場通り」に合流します。
路面や電柱には「元競馬場」の文字が見受けられ、近隣のベーカリーや薬局などの商店名にもその名が使われています。街自体がかつての競馬場の記憶を誇らしく、かつ自然体で受け継いでいる温かいコミュニティの姿を実感できるはずです。
【プロの結論】跡地散策をおすすめできる人・慎重になるべき人の判断基準
歴史スポット巡りや競馬探訪を趣味とする方に向けて、現場のリアルな条件に基づく判断基準を提示します。
| タイプ | 具体的な対象者・動機 | 編集部の見解・アドバイス |
|---|---|---|
| 心からおすすめできる人 | ・古地図や地形図を片手に街の成り立ちを追うのが好きな人 ・日本競馬の歴史や日本ダービーのルーツに深い敬意を持つファン ・坂道や道路の不自然なカーブに都市の痕跡を感じ取れる鑑賞眼がある人 | 道路のカーブに立ち、往年のワカタカの疾走と地響きを脳内で復元できる方には至高の散策路です。林試の森公園とセットで歩くと都市変遷の面白さが倍増します。 |
| 期待値調整が必要な人 | ・スタンドの瓦礫やゲートなど、巨大な物理的建築遺構を期待している人 ・テーマパークのような観光看板や派手な資料館を求めている人 ・静穏な住宅街でのプライバシー配慮やマナー遵守が難しい人 | 現地は100%閑静な住宅街です。残されているのは道路の線形、バス停、小さな記念碑と銅像のみ。派手なアトラクションはないため、過剰な期待は避けるべきです。 |
【目黒競馬場】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:目黒競馬場の跡地は現在どこにありますか?最寄り駅はどこですか?
A1:現在の東京都目黒区下目黒4丁目・5丁目・6丁目周辺です。最寄り駅は東急目黒線の武蔵小山駅(徒歩約15分)、不動前駅(徒歩約15分)、またはJR・東急の目黒駅(徒歩約20分)です。目黒駅西口から東急バス(黒01、黒02、黒06など)を利用し、「元競馬場前」停留所で下車すると目の前です。
Q2:日本ダービーが目黒競馬場で開催されたのは何回ですか?
A2:目黒競馬場で開催された日本ダービー(東京優駿大競走)は、1932年(昭和7年)4月24日の「第1回大会」のわずか1回のみです。翌1933年は競馬場移転作業のため11月に目黒で秋季開催が行われた後閉鎖され、第2回(1933年)以降の日本ダービーはすべて新設された府中(東京競馬場)で開催されています。
Q3:目黒競馬場の建物やスタンドの遺構は今も残っていますか?
A3:木造スタンドや厩舎などの建物自体は完全に解体・撤去されており、現存していません。しかし、コース外周の形状をそのまま引き継いだ「元競馬場通り」の美しいカーブ路や、目黒通り沿いに建つ「トウルヌソル像」付きの記念碑、そして「元競馬場前」というバス停の名前にその確固たる痕跡が残されています。
Q4:トウルヌソルの銅像はどこに行けば見られますか?
A4:目黒通りと元競馬場通りが交差する角の植え込み(「元競馬場前」バス停のすぐ近く)に設置されています。目黒競馬場跡記念碑の台座の上に、名種牡馬トウルヌソルを模したブロンズ像が誇らしげに掲げられています。
まとめ:コンクリートの下に眠る近代競馬の黎明と都市の記憶
明治の終わりに開設され、大正の震災を乗り越え、昭和初期に日本ダービーという不滅の記念碑を打ち立てて駆け抜けた目黒競馬場。その撤退と府中への移転は、単なる一施設の移転にとどまらず、東京というメガロポリスが農村を呑み込んで拡大していく都市化の宿命と、日本競馬が世界水準を目指した壮大な野心の必然的結末でした。
アスファルトで舗装され、整然とした邸宅が立ち並ぶ現在の風景の中にも、道路が描く緩やかな曲線として、先人たちの情熱と名馬たちの蹄音が刻み込まれています。都心の喧騒を少し離れ、目黒の緩やかな坂道とカーブに身を委ねて歩くとき、足元に眠る近代競馬の黎明の息吹が鮮やかに蘇ってくるはずです。 (出典: 目黒 競馬 場(Yahoo!ニュース))